大崎義隆
口天文十七年(一五四八)生
口慶長八年(一六〇三)没
戦国大名。
陸奥名生城主。
大崎氏十三代、最後の当主です。
大崎氏は斯波家兼を祖とする足利氏・奥州探題職の直系です。
南北朝抗争期に奥州に入り、所領は『大崎実記』などには大崎五郡三十五万石と書かれています。
義隆は十二代義直の嫡男。
左衛門督。
室は葛西隼人常時の娘。
天文・永禄年間頃には伊達氏の馬打ち領となり威勢が振いませんでしたが、義隆の時代に入ると、最上義光の後援でやや自主独立の風潮が見られました。
天正十六年(一五八八)の伊達軍の大崎領侵攻には大崎家主流派が決起して反撃し、これを敗りました。
しかし、翌十七年には伊達家に服属、同十八年の豊臣秀吉の小田原の陣には不参し、領地を没収されます。
義隆は同年八月十九日、中新田(宮城県加美郡中新田町)から最上路を経て上洛し、秀吉の命により上杉景勝付きとなり、慶長八年会津において没しました。
行年五十六歳。法名は融峰広祝。