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北海道・東北の武将「蘆名盛氏」・・・その1

戦国大名。

陸奥会津黒川城主。

藍名氏十六代目。

藍名氏は三浦氏一族佐原十郎左衛門尉義連を祖とし、嫡流家が本格的に会津に移住してそこを根拠と定めるのが南北朝内乱期で、七代直盛の時です。

康暦元年(一二七九)に会津入りした直盛は幕内(鶴ヶ城西三キロ)に三年住み、のち古館(同西北ニキロ)に二年間滞在し、至徳元年(=二八四)、会津門田荘(会津若松市)に府城を築き、「鶴ヶ城」と称し、城下を黒川と名づけました。

応仁の乱後、文明~大永年間にかけて領内に発生する戦乱はほとんど家臣団の抗争です。

中でも藍名四天の宿老と呼ばれた松本、富田、佐瀬、平田の四氏のうち、松本、富田は会津土着の有力国人、佐瀬、平田は譜代の臣でした。

北海道・東北の武将「蘆名盛氏」・・・その2

盧名家には指南制度という軍事制度があって有力家臣は中小領主を統率する軍事指揮官でもありました。

これら有力家臣が下剋上の波に乗って叛乱し、一時は十三代盛高、十四代盛滋父子をそれぞれ巻き込み、文字通り家中を二つに割る戦いにまで発展するが、戦火は会津領の外に及ぶことはありませんでした。

室町時代の藍名氏は自ら会津の守護と称し、伊達、岩瀬、石川氏らと勢を合わせ、岩城、結城氏と戦うなど、事実上守護権能を発揮している。

厳密にいえば会津守護はあり得ません。

天文七年(一五三八)に後奈良天皇哀筆・の般若心経が国別に一巻ずつ配布安置されたが、その一巻が藍名盛舜のもとに遣わされました。

北海道・東北の武将「蘆名盛氏」・・・その3

十六代盛氏は盧名家累世を代表する戦国の雄です。

盛氏は十五代盛舜の嫡男で大永元年の生まれです。

従五位下、修理大夫、大膳大夫。

室は伊達植宗の娘です。

盛氏の時代に入ると内乱は全く克服され、彼は独裁者として君臨します。

早くより婚姻を結んだ伊達氏、結城(白河)氏と親しく、北条氏康、武田信玄、上杉謙信らと誼を通じ、畠山義継(二本松)、田村清顕(田村)、二階堂盛義(須賀川)ら近隣諸将を降し、結城(白河)義親を助け、しばしば常陸の佐竹氏と戦いました。

北海道・東北の武将「蘆名盛氏」・・・その4

伊達家の「天文の大乱」には舅の植宗に味方したが、のち晴宗方に転じ、その動乱に乗じて勢力を仙道中通りに伸ばすなど、藍名氏全盛時代を現出しました。

永禄六年(一五六三)の幕府の記録に、奥州の大名として、それを代表する形で伊達・藍名の二氏だけが遇されています。

その領土は南山(南会津地方)を除く会津一円はもとより、安積一郡と岩瀬郡西部の、仙道中通り地方に及び、さらに越後蒲原郡小川庄(新潟県東蒲原郡津川町)を併せ、勢力は白河、須賀川、二本松、田村の諸氏にまで及びましだ。

盛氏は永禄四年、四十一歳で隠退し、止々斎(竹岩)と号したが、跡を継いだ十七代盛興が天正三年、二十九歳の若さで病没したため、盛氏は再び黒川城に帰り、老躯に鞭打って政務を執った。

北海道・東北の武将「蘆名盛氏」・・・その5

嫡男盛興には嗣子がなかった。

是非もなく、かねて人質として黒川城に留め置かれた須賀川城主二階堂盛義の嫡男、盛隆を後継者に立て、これを盛興未亡人(伊達輝宗の妹)に配し、藍名氏十八代を相続させました。

すべて隠居盛氏の計らいです。

かくて家運の行く末を案ずるままに盛氏は天正八年六月十七日に没しました。

行年六十歳でした。

会津郡小田村(会津若松市門田町)に葬る。

法名・瑞雲院殿竹巌関大庵主。

北海道・東北の武将「蘆名盛氏」・・・その6

盛氏像は会津若松市宗英寺に安置されています。

藍名家十八代を継いだ二階堂盛隆は、藍名、二階堂両家の総領の立場にあったので、両家兼任の形で政務を執行しました。

ところが天正十二年秋、寵臣大庭三左衛門のために黒川城内で斌逆され、盛隆は二十四歳の若さで散りました。

その後、盛隆遺児、亀王丸が相続したが、これも三歳にして没して、再度、常陸の佐竹氏より入嗣したのが二十代義広(盛重)です。

義広もまた天正十七年六月、摺上原において伊達政宗と戦い敗亡しました。

のちに常陸江戸崎に四万五千石で封ぜられ、やがて没領、という相次ぐ悲運の中で藍名氏は滅亡しました。

盧名義広

口天正四年(一五七六)生
口寛永八年(一六三一)没
陸奥会津黒川城主。

戦国大名藍名氏二十代目。

佐竹義重(常陸太田城主)の次男で、初め平四郎。

結城義親の養子となり、義広と称しました。

天正十四年に嗣の絶えた藍名家に迎えられ、二十代を相続、盛重と改めました。

時に十一歳でした。

のち、藍名氏譜代の家老富田・金森氏らと、義広(盛重)に従って会津に入った旧重臣の大縄・刎石氏らとの間に内証を生じました。

その隙に乗じて、伊達政宗が藍名同族の猪苗代盛国を誘って攻め入ったので、天正十七年六月五日、義広は磨上原(摺上原)に会して戦い、敗れました。

のち、常陸の佐竹家に帰り、天正十八年に豊臣秀吉から常陸江戸崎四万五千石を与えられたが、慶長七年(一六〇二)に佐竹氏の秋田移封に際して没領となりました。

その後、佐竹氏の家臣となって随行し、寛永八年六月、秋田で没しました。

行年五十六歳。

岩城貞隆

口天正十年(一五八三)生
口元和六年(一六二〇)没
陸奥磐城平藩十二万石岩城氏当主。

岩城氏は桓武平姓常陸大橡の一族とされ、中世いわき地方の支配者で、好間(いわき市)の大館にいて武威を振いました。

本系は岩城則道を祖とし、十五世紀中期、十九代隆忠の時に統一を果たし、隆忠-親隆-常隆-由隆-重隆=親隆-常隆と続きました。

常隆は天正十七年七月豊臣秀吉の摩下に属し、鎌倉の星谷で二十八歳で没しました。

そのため嗣養子貞隆が跡を継ぎます。

もともと貞隆(忠次郎)は常陸太田城主佐竹義重の三男であるが、伊達政宗に抗するため岩城家に迎えられていました。

のち貞隆実兄の佐竹義宣は初め上杉景勝と結び、関ヶ原合戦に参戦せず、貞隆もまた兄と同一行動をとったため、慶長七年(一六〇二)七月、義宣は秋田に転封、貞隆の岩城氏は所領没収となりました。

元和八年、信濃川中島二万石として復活するものの岩城大館城主岩城氏の時代は終わりました。

ちなみに、伊達一門岩城政隆は、常隆の実子でしたが、貞隆相続後に生まれたので、伊達家に養われる身となりました。

大崎義隆

口天文十七年(一五四八)生
口慶長八年(一六〇三)没
戦国大名。

陸奥名生城主。

大崎氏十三代、最後の当主です。

大崎氏は斯波家兼を祖とする足利氏・奥州探題職の直系です。

南北朝抗争期に奥州に入り、所領は『大崎実記』などには大崎五郡三十五万石と書かれています。

義隆は十二代義直の嫡男。

左衛門督。

室は葛西隼人常時の娘。

天文・永禄年間頃には伊達氏の馬打ち領となり威勢が振いませんでしたが、義隆の時代に入ると、最上義光の後援でやや自主独立の風潮が見られました。

天正十六年(一五八八)の伊達軍の大崎領侵攻には大崎家主流派が決起して反撃し、これを敗りました。

しかし、翌十七年には伊達家に服属、同十八年の豊臣秀吉の小田原の陣には不参し、領地を没収されます。

義隆は同年八月十九日、中新田(宮城県加美郡中新田町)から最上路を経て上洛し、秀吉の命により上杉景勝付きとなり、慶長八年会津において没しました。

行年五十六歳。法名は融峰広祝。

小野寺義道

口永禄九年(一五六六)生
口正保二年(一六四五)没
出羽横手城主。

小野寺氏十四代目。

出羽小野寺氏最後の当主です。

十三代輝道の次男。

孫十郎。

遠江守。

天正十八年(一五九〇)春、豊臣秀吉の小田原陣に降り、仙北の上浦郡三万一千石の安堵を得て、近世大名の道を開いた。

その後、同十九年の「九戸政実の乱」にも出兵しました。

朝鮮の役には名護屋へ参会しました。

しかし、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦では、徳川家の再三の要請にもかかわらず、義道は遂に出兵せず、上杉景勝に同盟したと見なされ、最上軍の攻撃を受けました。

同六年正月、小野寺家は改易となり、義道らは石州への流罪が決定しました。

津和野藩(島根県)坂崎出羽守勝正に預けられます。

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