ゴッホの人生 6

ゴッホは書きました。


「ぼくはよく坊やのことを考える。


絵を描くのに全神経を傾けすりへらすよりは、確かに子供を育てる方がいいことだと思うが、今さら仕方がない。


ぼくはもう・・・少くともそんな感じがするのだが・・・


年をとりすぎて引き返すこともならず、また他のことを望むことも出来ない。


そういう欲望はなくなったが、それでも精神的な苦痛は心に残っている」。


彼は、故郷オランダを思わせる、はるかにひろがった麦畑をくりかえし描きます。


この時期の彼の作品は、たとえば『オーヴェールの教会』や『鴉のいる麦畑』のような、サン・レミ時代の作風を受けつぎ、徹底的に追いつめた作品と並んで、不吉な空虚のしみとおった妙に白っぽい色調の作品が見られます。


それはそのまま、彼のこの時期の心のありようを示していると言っていいでしょう。


彼は、その種の作品のひとつについて、


「これは、今にも嵐の来そうな空の下の広表たる麦畑で、ぼくは思い切って悲しみや極度の孤独を表現してみようとしてみた」と語っていますが、この「悲しみ」も「極度の孤独」も、もはや、直接心に突きささるものでありません。

アジア通貨・株式市場の急落

アジア通貨、株式市場の急落の火つけ役はジョージ・ソロスが担うことになった。

マレーシアのマハティール首相は名指しでアジア市場を崩壊させたジョージ・ソロスを非難したが、市場経済原理を無視して人為的に公的介入をすることは天に向かって唾をするように、さらに海外からの投資の引き上げをみ、市場の急落を誘うことになった。

しかし一面ではアジアの株も通貨も輸出の好調で買われ過ぎ、評価の行き過ぎだったのだ。

これが正常の評価に戻るために調整を見たわけだが、行き過ぎは上にも下にもふれることになる。

下にふれて調整が行き過ぎればまた買い場が来る。

今後はアジア株、アジア通貨にも買い場が来る。

調整の時間はかなりかかるが、まだアジアの市場は成熟したわけではないし、中国という大マーケットも控えている。エグゼクティブトレードによると、タイミングさえ合えば、絶好の買い場が訪れることになる。

その点では一九九五年から九六年に投資したアジア・ファンドは今後元本割れに見舞われる可能性があるが、逆にこれから投資するファンドは買いのタイミングに入ることになる。

ゴッホの人生 5

パリへやって来たゴッホについて、テオの妻ヨハンナは、


「わたくしは病人を予想していた。


しかし、ここに立っているのは、健康そうな顔色をして、微笑を浮べ、非常に決然とした様子を見せた、たくましい、肩幅の広い男だった。


自画像のなかでは、画架を前にした像が、この時期の彼にいちばん似ている」・・・と語っています。


部屋へ入ったゴッホは、テオと並んで、自分と同じくフィンセントと名付けられた赤ん坊を眺めていましたが、「2人とも眼に涙を浮べていた」ということです。


テオのもとで、4日間滞在したのち、彼は、オーヴェール・シュル・オワーズへたちました。


ゴッホは、テオの子供をひどくかわいがったということです。


義妹に対して、やさしさといたわりにあふれた手紙を書いています。


しかし、サン・レミからやって来たこの病んだ画家にとって、弟一家の生活を眼にしたことは、彼が意識した以上に、その心の傷口を鋭く開くものだったにちがいないでしょう。


かつて、ヌエネンにいたとき、彼は弟に、


「君はぼくに妻を与えることは出来ない。


子供も与えることは出来ない。


仕事も与えることは出来ない。


金は・・・出来る。


だが、ぼくが、妻も子供も仕事もなしにやってゆかねばならぬとしたら、金が何の役に立つこか」。


・・・と書きましたが、以後、6年たち、事態は何ひとつ変ってはいません。


いっそう悪化しているほどです。


「ぼくの生活は根っ子からやられており、ぼくの足どりもまたよろよろしている」のです。


自分が彼らにとっての「呪うべき重荷になっているのではないか」という思いが、彼をとらえます。


しかし、今さら他にどうすればいいのでしょうか。

ゴッホの人生 4

続いてゴッホは、南仏にやって来た理由に触れ、


「ちがった光を見たいと思ったし、いっそう明るい空の下で自然を眺めたなら、日本の版画の感じや描き方がいっそう正確にわかるだろうと思った。


最後に、もっと強烈な太陽を見たいと思った」


・・・というふうに要約していますが、南仏への愛着はなおも執拗に続いてはいるものの、一方で、北へ帰りたいという欲求が、次第にその力を増してゆくようです。


最初の頃は、


「じっさい、ここにいると気楽だし、なぜパリやパリの近郊に下宿を移さねばならないのか、その理由がとんとわからない」と言っていたゴッホは、やがて、


「北欧にいた頃のようなパレットで、またやってみたい欲求」や、「友人たちに会いたい、北仏の田舎をもう1度見たいという欲求」を口にするようになります。


もちろん、これは、「北仏」だけをさしているのではなく、その背後で、故郷オランダが、この孤独な画家を呼んでいるのです。


彼は、翌90年4月29日付けの手紙で、テオに、『馬鈴薯を喰う人びと』や『ヌエネンの古い教会』など、ヌエネン時代の作品を描き直してみたいと言っていますが、これからも、そういう心の動きを察することが出来ます。


5月中旬、ゴッホはサン・レミを去り、17日土曜日、パリのテオの家に着きました。

ゴッホの人生 3

9月10日付けの手紙のなかの次のような文章は、燃えあがるようなものと何かうそ冷たいものとがとけあっていて、ゴッホの心の姿をいたましいほどあざやかに示しています。


「人生はそのようにして過ぎてゆく、時は2度と帰って来ない。


しかし仕事をする機会が2度とないことを知っておればこそ、なおさらぼくは仕事に夢中になっている。


ぼくの場合はとくにもっと激しい発作が起きれば、永遠に絵を描く能力がダメになってしまうかもしれなのだ。


発作の最中に苦痛と苦悶を前にして、ぼくは気力がなくなる感じがする。


・・・必要以上に無気力になるのだ。


しかし、以前は治りたいとは思わなかったのに、恐らくこの精神的な無気力そのもののせいか、いまは2人分も食べ、猛烈に仕事をし、他の病人との関係から、またぶり返すことを恐れて、じゃんじゃん食べる・・・


とまれ自殺をしようと思っていた男が、もう1度岸にはいあがろうとするように、ぼくは今、治ろうとしているのだ」。


ゴッホの人生 2

孤立と孤独のなかでおのれをいため続けてきたゴッホにとって、病院での生活は特にどうということはなかったようです。


着いた直後の手紙で、彼は、「こちらへ来てよかったと思ってる」こと言い、「次第に、狂気も他の病気と同様ひとつの病気なのだと考えられるようになってくる」と言っています。


同封した義妹への手紙でも「みんなアルルの善良な市民よりはつつしみ深く礼儀正しくて、ぼくを静かにしておいてくれる」から、「ここやアルルの病院にいるほど落ちついたことはこれまでない」と言っています。


もちろん、このような最初の印象がそのまま続くわけではなく、やがて、病院の扱いに、控え目ながら不満をもらすようにもなりますが、少くとも、病院生活が、彼を、日常生活においての、周囲の人間とのいざこざから救ったことは確かでしょう。


しかし、それはまた、彼を、発作への不安に、つねに直面させ続けることともなったはずです。


発作のあと、彼は「この何日間か、ぼくはアルルにいたときと同じように『完全に気がふれていた。』


以前より悪いとは言わぬまでも同程度にひどかった。


それにああいう発作がまた続いてぶりかえさぬとも限らぬと考えられることは、じつに『気の滅入る話』だ」と言います。


そして、そういう発作の合間に、狂気によってさらに増幅されたような異様な覚醒状態のなかで、「憑かれた人間のように」仕事を続けるのです。

ゴッホの人生

美術史家は、ゴッホのスタイルの変化を、セザンヌにも共通する、古典主義から「バロック化」への動きとしてとらえています。


そうも言えるでしょう。


ただ、ゴッホは、この場合も、「バロック化」を、そのもっとも危機的な姿にまで追いつめています。


つまり、ゴッホにおいては、「バロック化」は、単なる様式上の変化展開に尽きるものではありません。


それは、アルル時代の作品に見られる生の一元的強行から、生と死が、互いに激しくひきあうと同時にしりぞけあう、切迫した対立への展開にほかならないのです。


この場合、画家自身も、もはや対象の外部にあって対象を見ていることは出来ません。


対立は、対象のうちにのみあるのではなく、画家の内部にもあるのです。


こうして、今や、描くとは、対象と画家をともに包む、生と死の運動そのものに身を委ねることとなります。


その点、ゴッホが、サン・レミ時代の或る手紙のなかで「タッチ、筆勢とは何と不思議なものだろう」と言っていることはいかにも興味深いです。


「タッチ」こそ、このような運動に身を委ねるための接点にほかならないからです。

小野寺義道

口永禄九年(一五六六)生
口正保二年(一六四五)没
出羽横手城主。

小野寺氏十四代目。

出羽小野寺氏最後の当主です。

十三代輝道の次男。

孫十郎。

遠江守。

天正十八年(一五九〇)春、豊臣秀吉の小田原陣に降り、仙北の上浦郡三万一千石の安堵を得て、近世大名の道を開いた。

その後、同十九年の「九戸政実の乱」にも出兵しました。

朝鮮の役には名護屋へ参会しました。

しかし、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦では、徳川家の再三の要請にもかかわらず、義道は遂に出兵せず、上杉景勝に同盟したと見なされ、最上軍の攻撃を受けました。

同六年正月、小野寺家は改易となり、義道らは石州への流罪が決定しました。

津和野藩(島根県)坂崎出羽守勝正に預けられます。

大崎義隆

口天文十七年(一五四八)生
口慶長八年(一六〇三)没
戦国大名。

陸奥名生城主。

大崎氏十三代、最後の当主です。

大崎氏は斯波家兼を祖とする足利氏・奥州探題職の直系です。

南北朝抗争期に奥州に入り、所領は『大崎実記』などには大崎五郡三十五万石と書かれています。

義隆は十二代義直の嫡男。

左衛門督。

室は葛西隼人常時の娘。

天文・永禄年間頃には伊達氏の馬打ち領となり威勢が振いませんでしたが、義隆の時代に入ると、最上義光の後援でやや自主独立の風潮が見られました。

天正十六年(一五八八)の伊達軍の大崎領侵攻には大崎家主流派が決起して反撃し、これを敗りました。

しかし、翌十七年には伊達家に服属、同十八年の豊臣秀吉の小田原の陣には不参し、領地を没収されます。

義隆は同年八月十九日、中新田(宮城県加美郡中新田町)から最上路を経て上洛し、秀吉の命により上杉景勝付きとなり、慶長八年会津において没しました。

行年五十六歳。法名は融峰広祝。

岩城貞隆

口天正十年(一五八三)生
口元和六年(一六二〇)没
陸奥磐城平藩十二万石岩城氏当主。

岩城氏は桓武平姓常陸大橡の一族とされ、中世いわき地方の支配者で、好間(いわき市)の大館にいて武威を振いました。

本系は岩城則道を祖とし、十五世紀中期、十九代隆忠の時に統一を果たし、隆忠-親隆-常隆-由隆-重隆=親隆-常隆と続きました。

常隆は天正十七年七月豊臣秀吉の摩下に属し、鎌倉の星谷で二十八歳で没しました。

そのため嗣養子貞隆が跡を継ぎます。

もともと貞隆(忠次郎)は常陸太田城主佐竹義重の三男であるが、伊達政宗に抗するため岩城家に迎えられていました。

のち貞隆実兄の佐竹義宣は初め上杉景勝と結び、関ヶ原合戦に参戦せず、貞隆もまた兄と同一行動をとったため、慶長七年(一六〇二)七月、義宣は秋田に転封、貞隆の岩城氏は所領没収となりました。

元和八年、信濃川中島二万石として復活するものの岩城大館城主岩城氏の時代は終わりました。

ちなみに、伊達一門岩城政隆は、常隆の実子でしたが、貞隆相続後に生まれたので、伊達家に養われる身となりました。

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