盧名義広
口天正四年(一五七六)生
口寛永八年(一六三一)没
陸奥会津黒川城主。
戦国大名藍名氏二十代目。
佐竹義重(常陸太田城主)の次男で、初め平四郎。
結城義親の養子となり、義広と称しました。
天正十四年に嗣の絶えた藍名家に迎えられ、二十代を相続、盛重と改めました。
時に十一歳でした。
のち、藍名氏譜代の家老富田・金森氏らと、義広(盛重)に従って会津に入った旧重臣の大縄・刎石氏らとの間に内証を生じました。
その隙に乗じて、伊達政宗が藍名同族の猪苗代盛国を誘って攻め入ったので、天正十七年六月五日、義広は磨上原(摺上原)に会して戦い、敗れました。
のち、常陸の佐竹家に帰り、天正十八年に豊臣秀吉から常陸江戸崎四万五千石を与えられたが、慶長七年(一六〇二)に佐竹氏の秋田移封に際して没領となりました。
その後、佐竹氏の家臣となって随行し、寛永八年六月、秋田で没しました。
行年五十六歳。